まだ日の出前、5時起床。
元の生活ペースを取り戻しつつあります。パソコンに向かい、北海道北見支部の写真作品講評を書き上げてから朝食。次に掃除、洗濯を一気に片付けてホット一息。
 差し込む秋の日差し、風に揺れるヤマナラシの音に耳を傾けながら、朝刊を手に。
少し大げさに言えば「至福のひと時」と言って良い。

 全国紙と地元紙を、興味がある記事を中心にじっくり読む。
美味しい緑茶かコーヒーがあればなお良い。10月15日の朝日新聞も手元に置き、何度も読み返しています。

 少し日にちをさかのぼったのは、15日から始まった「新聞週間」にちなみ、朝日新聞が7ページに及ぶ「震災と原発事故 朝日新聞は」の特集を掲載していたからです。

 「大津波による震災と、原発事故という二つの重大な事態が起きた東日本大震災。総力を挙げて取材した朝日新聞は何をどのように伝え、何が不足していたのか。記者らの証言をもとに初期段階の報道を検証した。」(朝日新聞1面サマリーから)とありました。

 特集の1ページ目には「震災発生の午後3時。朝日新聞の編集部門を統括する吉田真一編集担当が東京本社で招集した臨時の部長会で『戦争と同じ非常時だ。新聞の使命と朝日記者2400人一人ひとりの力量が問われている』」と述べた報道の基本方針を示した内容でした。
そのページには一枚の大きな写真が添えられていました。「福島第一原発3号機で爆発があった後、急きょ、紙面打ち合わせ会が開かれた=3月14日午前11時50分、朝日新聞東京本社」とありました。

 大勢の男たち(取材を指揮する各部の記者やデスク、部長たち)が、恒例により立ったまま紙面を囲んでいました。私は定年後すでに7年も経ち、勿論そ写真の中に知る人はいませんが、それでもたった一人だけ見つける事が出来ました。全員がどんな思いで編集局の一角に立っているのか・・・・、と思いを巡らす中で、胸の高まりと瞼が熱くなりました。

 特集2ページ目は「炉心溶融 不十分な情報でどこまで書けるのか」を巡り、編集局の専門分野の記者たちの葛藤が描かれています。さらにページ3では、「放水作業などの作戦報道に追われ、戦時中に敗退を隠した『大本営発表』のように」と自戒と反省を込めて振り返っています。
 ページ4では「ただちに健康に影響はない」との政府発表をどう判断したかを問いかています。
ページ5では「水が店頭から消えた 読者に必要な情報は」と消費者への呼びかけについての総括。
ページ6は「被災者の『言いたいこと』ストレートに」と、被災地を這うようにして取材した記者たちの苦悩と、ツイッターによる情報発信についてまとめてあります。
 ページ7では「『わが国でも起きうるのか』 海外も見つめた」と、海外メディアはこの震災をどう扱ったのかを検証しています。
そして最後に「被災地3総局長 被災報道を語る」で、「記者自身も被災者だった。放射線報道バランス模索。復興の行方伝え続けたい」との心情で締めくくられています。

 自身がかつて勤めていたという思入れは別としても、この特集は「新聞週間」に相応しい読み応えがある内容でした。震災に立ち向かった自衛隊や消防、警察、救急、自治体職員などと同様、名も無き多くのジャーナリストたちの働きに、熱いものを感じました。

 今年6月の横浜。私は新聞博物館を訪ねました。新聞各社による震災の報道写真展を見る為でした。
そこでフェルトペンによる手書きによる「石巻日々新聞」の実物を目にしました。
社屋が流出し新聞発行が出来ない中、記者たちが手書きで書いた新聞が展示されていたのです。
残念ながら撮影禁止だった為、ブログで紹介する事は諦めましたが、胸が震えました。アメリカ・ワシントンの博物館に保存されることが決まっています。

 陽だまりの中で特集を読むだけに過ぎない年代になりました。しかし今でも胸が震え、瞼が熱くなるほど感動しながら今年の新聞週間を迎えました。


 

 

 
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