2011.05.03 大潟村広報紙
 二日続きの雨が上がり朝からさわやかな連休になりました。
 毎月初めに、各戸に配布される大潟村広報紙「おおがた」のコラムに掲載された一文を今日は紹介します。

『私は平成17年3月、“大潟村情報発信者”として移住しました。私たちのことをもっと知りたいというご意見に応えるため、順次コラムが掲載されてきました。改めて自己紹介をいたします。
私は新聞社カメラマンとして首都圏で仕事をしてきました。1944(昭和19)年、合川町で生まれました。父親の転勤で藤里村、二ツ井町、能代市などの学校に転校。
 1967(昭和42)年、朝日新聞社に入社。東京や札幌、名古屋などに転勤しました。
 この間、「大学紛争」や「浅間山荘事件」「日航機墜落事故」などの事件・事故や、「日曜版」特集等の取材で国内や海外を巡りました。日本が高度成長に向かう時代、社会的にも矛盾や摩擦が生じ、激動の時代でした。新聞というメディアを通して時代を見つめ、記録するのが私たちの任務でした。
 私が取材をした一枚の写真がかつて新聞に掲載されました。肉親捜しのため来日し、肉親が判明しないまま成田空港から帰国せざるを得ない中国残留孤児の写真です。そして新聞写真を見た詩人の方の文章が「光村図書出版」の国語教科書(平成15年)に「お辞儀するひと」が掲載されました。
「めいめい手を振って別れの挨拶をする、いっこうから少し離れ、床に手荷物の紙バッグを置き、こちらに向って、深々と頭を下げている女のひと。劉桂琴さんというそうだ。
(中略)
桂琴さんの写真に添えて『だれにともなく深く一礼』と説明がある。だれにともなく!こんなにも美しく、哀しいお辞儀の姿を、私はかつて見たことがない、ただの一度も。
(以下省略)
 一枚の報道写真に触発された作者の思いを学ぶことが授業の目的ですが、私はこの教科書の事実を知りませんでした。定年後に授業に取り上げた先生が教えてくれましたが、苦労が報われた思いがしました。
 またシベリヤ抑留者が収容所で読んだ幻の「日本新聞」を取材し、厚さ5㌢、全3巻として朝日新聞社から出版され、同時に捕虜収容所の日本兵を記録したアルバムも発見、写真集として出版されました。
 映画「ラストエンペラー」の舞台となった中国・撫順市の「撫順戦管理所」では、「極東軍事裁判の記録写真を見つけ、「アサヒグラフ」誌で紹介しました。
 東京から名古屋へ転勤。定年後2年間に「市災害対策委員」や「市区政協力委員」などの地域活動にも専念しました。
 名古屋は生活しやすい街でしたが、土や緑がある生活を求め移住先を探していた時、「大潟村入村事業」を知り移住を決めましました。「終の棲家」を建て、大潟村公式ホームページ【情報発信者のサイト】で日々情報発信中です。「写真クラブ」「木炭水質浄化研究会」「山友会」「歩くスキーの会」で村の方々と心を通わせる有意義な暮らしを送っています。』

今日、いつも家の前を散歩している方から声をかけられ「『おおがた』広報を読みました。これまでは想像するだけでしたが、どんなことをしてきたか良く分かりました」とおっしゃって頂きました。
普段接する機会がない村の方々に知って頂くという趣旨を果たすよき機会だったと思います。
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