あれからもう25年・・・・・・。
群馬県上野村の御巣鷹山に日航ジャンボ機が墜落。520人の乗員、乗客が亡くなるという史上最悪の航空機事故の慰霊祭が今日、現地で行われました。

 
毎年のことながら、TV報道で見る遺族たちの悲しみと無念さは痛いほど伝わり、涙を禁じえません。

 25年の歳月は、本当につい昨日のことのように脳裏をかすめます。
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 この写真は事故取材時のものではありません。オホーツクで流氷取材中のものです。セスナ・サイテーション 「ちはや」で。同乗していた出版写真部員が撮ってくれました。貴重な1枚です。

 その頃、私は東京本社勤務で神奈川県平塚市に住んでいました。いよいよ明日から1週間、夏季休暇という日でした。子供5人を含め一家7人、夕食のテーブルに着いていました。ビールを一口ほど飲んだ時でしょうか、会社から「飛行機が落ちたらしい!直ぐ出社するように」という緊急電話でした。
この夜から、1週間ほど家に帰れなかった、ように思います。

 その後、知ったことです。
捜索が難航し、翌朝まで墜落現場が特定出来ず救助が遅れた、という報告がありました。しかし、当日夜遅く、墜落・炎上現場を本社機が特定し、空撮をしています。特ダネだったと思います。そのため翌日の出直後、私も本社機で墜落現場を空撮しています。
一民間会社が発見しているのに、どうして自衛隊、警察などの捜索が遅れたのか、当時話題にもなりました。
朝陽を受け、まだくすぶり続ける紫色の煙と、山中に横たわるJALの白い翼が今でも脳裏に焼きついています。

 私は御巣鷹山の墜落現場には立っていませんが、「慶子ちゃん」救出時にはヘリで現場上空にいました。

 墜落現場は険しい山中で、記者、カメラマンが相当数各所に散らばって取材をしていました。現在のように携帯電話などはまだ無く、各自が無線機を持っていました。しかし、通信事情により本社と直接無線交信が出来ないため、山上に臨時中継局を設置し、通信を確保していたように思います。
ヘリで空撮取材をしながら、彼ら一人ひとりの安否確認をし、食料や物資を上空から補給する任務をしていました。その最中、「生存者がいる」という一報を受けたように思います。

 記憶が曖昧な点はここです。編集局で「生存者がいる」と速報を知ったような記憶もあるからです。その上で本社屋上へリポートから御巣鷹山へ向かったのか、記憶が明確に判明しません。
どちらにしても「生存者あり」の一報は、鳥肌が立つような衝撃と感動でした。
総立ちで締め切り時間と格闘している同僚たちも涙を浮かべていました。「全員死亡」の彼方に、微かに見えた希望のともし火。誰もが突き上げるような感情に耐えられなかったのかも知れません。

 この日が来ると、毎年同じように記憶を辿っても、この前後の関係がはっきりしません。当時の取材状況を書き記した出版物もありますが、見たいと思いません。

 いずれにしても、墜落現場の谷底で発見された「慶子さん」を、救助隊員がタンカで担ぎ上げる様子をほぼ水平に空撮する位置関係でした。パイロットの高度な技量が無ければ、あり得ないギリギリの極限取材だったと思います。

 あれから25年と言えば、四半世紀の時の流れです。当時、小学生か中学生だった5人の子供たち。今は、それぞれに自立し、東京、名古屋、大阪、海外に住んでいます。たまに会うと、思い出したかのように誰かが「親父は、あの夜から家に帰らず、夏休みも吹っ飛んだったよね」と言います。

 雑事に追われてはいるものの、今ではイヤでも毎日が夏休み同然の日々!? 
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